昭和五十七年十月十日 朝の御理解
御理解第七十二節 「人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし」
昨日、そこの合楽の田中初美子さんが毎日日参されます。昨日こんなお礼のお届けがございました。先日、何か村内のお世話事がございました。〔そ〕の中で何か芋の天ぷらを揚げる役目を仰せつかったと言うのです。その時にせっかくこうやって御用させて頂くのだから、もう皆さんに本当に喜んで頂くような御用が出来ますように、美味しい芋の天ぷらが出来ますようにと、もう本気で祈らせてもらって、揚げさせてもらったら、もう皆から返ってくる言葉が、「今日の天ぷらはとても美味しかった。美味しかった」というもう本当にね。
何をさして頂くでも、とにかく人に喜んで頂く。喜んで頂きたい。そういう願いを持つことが、次の御用につながり、その御用ならまあ先だってから頂くように、天地に還元できる働きにまでなるということをまあ感じたというお届けでございました。
そうですね。ですからそういう祈りがね信心者には要るんです。今日の御理解なんか、これはまあ大変まあみやすいようで難しい御理解ですね。「人を軽う見な。軽う見たらおかげはない」ともう断言しておられますもんね。
ところが、実際やはり、あっ、あの人は立派な方だと思うたり、立派でないと思うたり、あの人は人間が軽々しい人だと見たりね。また自分の好き嫌いもあったりして、なかなか出来ませんけれどもね。まあ芯からは出来ませんけれどもね。教祖様がこう教えておられるのだからと。「人を軽う見るな。軽う見たらおかげはなし」断言して教えておられるのだからね。自分自身の自重というかね、いわゆる君子自重である。
誰でもやっぱり君子を目指すことである。君子ね。言うなら、立派な人を目指すことなんです。真の人を目指すことなんです。君子です。ですから、そこにいつも自重がなからなきゃいけないです。軽はずみなこと。軽いことしちゃ。
私は北京におりましたから、「君子自重」という言葉を知ってるんですけども。その、長い、こう壁があったら、その壁の所で、その、皆が立ち小便をするわけなんです。それで立ち小便をするようなごたる所へ、「君子自重」という貼紙が書いてあります。お前は君子だぞと。こうやって立ち小便なんかしたらいけないよと言うわけなんです。
〔それ〕で、そこの合楽食堂のあそこが、ほんなもう店の、まん丁度横の所で、皆がその、立ち小便をしますから、もう本当にお粗末ご無礼になるというお届けがありましたから、私が「君子自重」と書いてやった。してこれば貼っときなさいと言う。したら、「おばしゃんこれは何の」ち言うちから、そこでよるげなもん。(笑い)「これはね立ち小便やらここでしちゃ出来んち言うことばい」ち言うちから、まあ言う。言えんでしたけどね。君子の自覚が要るわけです。
真の信心を目指すからには、真の人を目指さなきゃなりません。真の人というのはね、なかなか出来ませんけども、自重、自重の出来る人ですね。ですから、出来ないですけれどもね。結局、真の人を目指すことによってです。皆を真の人と見ることも出来ないけれども、出来るように段々なってきて、これはもう、私が長年の体験ですけれどもね。人が嫌うとか好かんと言うような人ほど、私はやっぱ誰でも好かれん人は好かれんですよね。そんなものを持ってますよ。そういう人ほど大切にするという生き方をね、私は身に付けさせて頂く稽古をしました。
これはもう皆さん難しいことですけれども、なら、そう思えば簡単ですからね。簡単に出来ることです。教えを行ずるということはね。「軽う見な。軽う見たらおかげはなし」と。もうおかげはない軽う見たら。そこでなら、自分自身がね、そこに自重するのです。そして神様の氏子として見、または人が軽う見ておっても、その軽う見たり扱うたりしない。そこから不思議に不思議におかげ〔を頂く〕。これはだからもうおかげがあると私は断言しますね。
「軽う見たらおかげはなし」と教祖はおっしゃっておられるから、軽う見らんですむ、自分が自重を持って、それに人に接する。これは人だけのことじゃありませんですけどね。その、そういう自重が必ずおかげ受けるです。おかげがあるです。本当に言うならば私のためになって下さるです。その人達があんまりね、信心がなかった時には、そういう人達とはもう言うなら縁も出来てもすぐ切れたでしょう。
ところが大事にしだしましたら、今度は向こうも大事にして下さるようになるです。そこから、何か深ーいその縁が結ばれて、その人達が、私の、これは私のために大変大事な御用をして下さるようになるです。これはね、だから難しいですけれども、またはやろうと思えば簡単です。
そうなってしまえじゃないですからね。軽う見たらおかげはなしじゃから、だから軽う見らんならおかげがあるということになりますえね。なかなか、なら神の氏子として丁重に扱うことも出来んけれども、それを大事にするという心がけになりますと、いわゆるおかげがあるということになるですね。これは本当じゃろうかと思うくらいです。
皆さん自分の周囲にね、軽う見ておる人達がおりますでしょ。もうあんなげな奴とはもう付き合おうこともないというのがおりましょ。わざわざこちらからおべっかい使うて付き合おうということじゃないですけども、そういう関わり合いになってきたら、それを大切にする一つ修行をしてご覧なさい。「そこからおかげがある」とこう断言されるようなおかげが生まれてくるです。実は難しいです。難しいけども、ならやろうと思うたらこれはまた簡単ですね。
これはそれとは違いますけれども、人間にはやっぱりいろんな。私は、こうこうして一杯頂くと、人に物をあげる癖があるんです。ネクタイなんかこうやって開けて見せな出来ん。ああそうすっと、「これはよかですなあ」と言うとば、「ならそれあんたにやろう」というごたるふうに。その、ところが、これが非常に自分を美しゅうするための修行になったように思います。信心のなかったり薄かったり時代のことです。
やっぱり自分が立派な人間になるその自重がです。そういう精進がです。何かそこに工夫されるとね、私は、あの、美しい人間じゃないですけれども、もう美しいこと見えるわけです。「あんたがよかつば持って行かんの」とこう言う。で、心の中じゃ「惜しかった」とこう思いよるけれどもね。そういうやはり、あのう何ち言うかね、手立てを以てでも、自分を自重して行こうというような。
それがたまたま今日の御理解で言う、「軽う見な。軽う見たらおかげはなし」とおっしゃるね。だから軽う見とった人を、今度ね丁重に扱うという修行をさして頂いたら、おかげがあるちいうことになるでしょうがね。もう「おかげはなし」と断言して教えとられます。
だから今日は、私は皆さんに断言して、皆さんの周囲にです。軽う見ておる人がおるなら、それをね、丁重に扱う修行をさして頂いたらおかげがあるということが言えると思うですね。これは私の体験からそれを言えます。
どうぞ。